この記事は、一部で酷評、そして面白いと評価もされている、将棋をあまり知らないらしい羽田圭介さんが初めて書いた観戦記に対して、私(管理人)がごく個人的な感想を述べる記事です。何があっても許してくださいm(_ _)m
第1期叡王戦決勝3番勝負(郷田真隆九段vs山崎隆之八段)第1局の観戦記は芥川賞作家の羽田圭介さんでした。
羽田さんは今年(2015年)芥川賞を獲ったばかり。お笑い芸人として史上初の受賞となったピースの又吉直樹さんとのW受賞だったため、当初その影に隠れて目立ちませんでしたが、そんな境遇もウケて最近ではいろんなメディアに出ていらっしゃるようです。
羽田さんの第1局の観戦記は、第2局がニコニコ生放送で中継されている最中にWeb上で公開されました。公開後、そのニコ生には「ひどい」や「つまらん」などと酷評するコメントも流れていましたので、注目された方も多いと思います。
【観戦エッセー】第1期叡王戦 決勝三番勝負 第1局 郷田真隆九段 対 山崎隆之八段 (羽田圭介)
観戦記ではなく「観戦エッセー」と書かれています。エッセーというと、私は違和感がありました。なぜわざわざエッセーという題名をつけたか。私の解釈は、これが自身を主人公にした短編小説だということを形式的に隠しているため、です。
異世界へ
近頃、将棋を題材にしたライトノベルが流行の兆しを見せているような、そうでもないような状況です。私はライトノベルとか、漫画やアニメも含めてその辺のカルチャーにあまり詳しくなく、でも将棋サイト運営者としてはこれではいかんと思い勉強しようと思い立ったものの、よくわからなくて挫折を味わっている最中です。
ライトノベルの一つのジャンルとして「異世界」に行く(行かされる)というものがあるようで、「異世界トリップもの」とか言われているみたいです。「異世界トリップもの」の正確な定義がいまいちわからないので、私の中では「主人公が今いる世界とは違う別の世界に行って、いろいろある」と勝手に定義しようかとも思ったのですが、詳しい人にとってはそう勝手に定義されるのも不愉快だと思いますので、この記事では私の思っている定義を「異世界トリップ的なもの」と濁して表記します。
ライトノベル以外で「異世界トリップ的なもの」の有名な作品としてはジブリの「千と千尋の神隠し」でしょうか。主人公の千尋がひょんなきっかけから現実世界とは別の世界にたどり着き、そこで冒険し成長する。異世界に行く、あるいは知らない場所に行く、そこで冒険をする、というのは非日常を描く娯楽作品の古典的な手法だとも思います。
異世界にトリップするパターンとしては、自分が目的を持って異世界に行くパターンと、そうではなく他の力によって行かされるパターンがあるようです。羽田さんの場合は後者。
召集令状が自分のもとに届いたという感じで、なんとなく断りにくかった。
トリップする異世界が、まったく一から作り上げられたような、誰にとっても未知の世界ということでは読者がついてきづらい。そこで未知と既知を混ぜるというやり方もあるようです。主人公が行く世界は、一見知っているようで、実は知らない世界、という手筋。
自分が観戦記を書く媒体は新聞ではなく、ニコニコ動画を運営しているドワンゴだと知った。勝手に勘違いをしていた。
歴代の芥川賞受賞者たちが歩んできた「観戦記を書く」という道だが、「ドワンゴで書く」というのが未知の部分。
異世界に触れる
異世界トリップ的なものでは主人公が「異世界にたどり着いた」感を読者に感じてもらう、というのが一つの筋のようです。いわゆる「トンネルを抜ける」という段階。トンネルを抜けた先では、まったくこれまでとは違う行動を要求される場合もありますし、まだこれまでと同じ行動ができる場合もあります。羽田さんの場合は後者。
そんなわけで当日、対局の行われる会場である上野の国立科学博物館へたどり着く。立会人や専門誌の編集者、記者らが集まる控え室へ通された。朝食を食べていなかったので腹が空いており、紙皿の上に置かれていたチョコレート系のお菓子をムシャムシャ食べる。
そこから異世界に触れる段階になります。まず知らない世界に素直に驚く。
え、今まで対局、始まってなかったの?
どうやら駒を並べ終えたあとは、対局開始の定刻になるまでじっと待つものらしい。そんなことも自分は知らなかった。
その世界への不満を述べたり、感心するのも計算された一手、と見えてしまうのは私だけでしょうか。ちょっと上から目線になってしまって申し訳ありませんが、この文章を誰に向けて発信しているかっていうのが、よく考えられていると思いました。
子供の頃から正座ばかりしていると足の骨の成長点が痛み身長の伸びが早く止まってしまうとどこかで読んだ。
郷田九段のアンニュイな「考える人」ポーズが、かっこいい。白髪の混ざり具合が銀髪っぽくて、神々しい雰囲気もある。
何かの本で読んだことがあるのですが、エンターテインメントに対して不満を述べるという行動は、その世界にハマっていく過程の1つなんだそうです。
敵が出現
異世界では、何からしらの困難を乗り越えるというのが定跡です。いろんな困難の種類がありますが、敵が現れるのがわかりやすいです。
羽田さんの前にも敵が現れます。
入場を、止められた。
しかもなぜか半笑いで、こちらを馬鹿にしたような、常識を欠いた者を非難するようなニュアンスまで露わにしている。
敵に跳ね返され、控え室に戻っても不遇は続く。
なぜ自分はここにいる? 元の世界に帰してくれ、という気持ちになるのも定跡手順。
予定より少ない枚数でも原稿料が変わらないのであれば、帰るよ? 本当に。
異世界に慣れたらさらに奥へ
異世界での生活に慣れてきたころ、さらにもう一つのきっかけが与えられて、異世界のさらに奥に進むことになるのも一つの筋です。千と千尋でいえば海原電鉄に乗って沼の底駅へ行く。
一五時半頃、ドワンゴの担当者が控え室へやってきたところで、生で観戦したい旨伝える。すると今度はすんなり対局室へ通された。
そこではこれまでとは違った得難い経験をするし、真実を知ることになったりする。異世界への不満や拒否反応はなくなっていて、話の流れはものすごく速いし、濃くなる。
結末
私の個人的な趣味ですが、小説でも映画でもテレビゲームでもそうなんですが、最終目的を達成した(真相を解明した、ラスボスを倒したとか)後は、エンディングまでさっさと行ってほしいし、エンディングもすみやかに終わって欲しいです。余韻に浸るのは映画館を出た後のトイレで、というタイプの人間です。千と千尋だって、「私の本当の名はニギハヤミコハクヌシ」から「呼んでいる~胸~の~」まではすみやかに駆け抜けますね。
羽田さんのエンディングは私好みでした。
新聞ではできなさそう
これが普通の新聞に連載される「観戦記」だったら、ちょっと違うかもしれません。無料で、Web上で一気に、数分で閲覧できる読み物、最初に書いたように「自身を主人公にした短編小説」だからこそ成り立つのかも。
ドワンゴさんだって、異世界の構成要素の1つとなって文中で批判されながらも気前よく掲載していますし。
ただ、この観戦エッセーというアプローチが良いかどうかっていうのはまた別の問題の気がして、そこは私としてもまだよく理解できていないです。
長年の将棋ファンがどう思ったのか、とか。例えば将棋は「指す」ものなのですが文中では「打った」と書いてある箇所があり、この仕事をもらった人がいくらなんでもこれを知らないわけがないし、意図的でないならドワンゴさんもさすがに直すはずで、これは主人公のキャラ作りが露骨過ぎだろうと思いました。ただエンタメ作品としてはこれでいいのかも、とも思いました。
新しい棋戦、叡王戦ですし今は試行錯誤の段階でいろいろあっていいんじゃないかと。
これがもし有料だったり新聞紙上、雑誌上だったら「金返せ」とか「もうお前のところの新聞は取らん」とか言われそうです。掲載してもらえない可能性もあります。無料、Web、数分、という「ドワンゴの観戦記」の条件だからこそ新しいチャレンジができたんじゃないかと思いました。
コメント
普段観戦記を読まないのですが話題になってる、ワンクリックで無料で読める、ということで読んでみました。
率直な文章で大変読みやすく、ドワンゴが誂えた「将棋村」に羽田さんが困惑しながらのめり込んで行く過程が面白かったと思います。
将棋を指す。
観戦記を読む。
将棋が題材の漫画やドラマ、小説を読む。
どれも隔たりがある気してそれをなくす第一歩としてお手軽でいいのではないかと思いました。(羽田さんは大変だったでしょうが)
コメントありがとうございます。
「観戦記」というものに何を求めるか、変わってきているのかもしれないと思いました。以前は対局室の中の映像や感想戦の放送などがなかったため、観戦記者はその立場を利用して、読者が知り得ないことを伝える必要があったのだと思います。それが観戦記としての当然の形だったと。ただ今は対局室内が生中継されていますし、「孫の手を使った」「手が震えた」「ため息をついた」までわかるので、むしろ観戦記者の感性で書いてもらえることがありがたいと。
確かに、「観戦記」というと将棋ファンじゃない方やライトなファンの方は読みづらいかもしれませんが、小説との中間みたいな存在だと読みやすいかもしれませんね。しかも羽田さんの観戦記は、(私の解釈では純文学ではなく)ラノベとの中間的存在ということで若年層にも読みやすいかもしれないです。
コメントありがとうございます。
最近の名人戦は職業観戦記者による観戦記と作家の観戦エッセイという形式がとられることがありますね。以前は朝日新聞では作家による観戦記が第1局におかれることが多かったですが、読みものとして興味深い反面、将棋の分析についてはどうしても浅くなるので、二本立てのほうがいいのかもしれません。